【金魚】第1話 煌と涼
code:第1話 煌と涼
少年は、ペットショップの水槽で泳ぐ真っ白な金魚に一目惚れをした。
透き通った鱗と、雪のように淡い光を纏った尾びれ。その姿は、まるで幻想の生き物のようだった。
少年はどうしてもと必死に両親にねだり、ようやく小さな水槽ごとその金魚を手に入れた。
それからの日々、少年は金魚を宝物のように大切に育てた。両親の手を借りることもなく、餌やりも水換えも自分でして、必要なものはすべて自分の小遣いでまかなった。
引っ込み思案で人見知りだった少年にとって、金魚は心を許せる唯一の友達だった。
嬉しいときも、悲しいときも、少年は金魚とその時間を分かち合った。
やがて10年が経ち、少年が18歳になった年に、金魚は静かに命を終えた。
擦り切れた尾びれがかすかに揺れて、その小さな体が水面に浮かんだ。
それから30年の月日が流れた。
引っ込み思案だった少年は、優しくも逞しい、大人の男に成長していた。
水無瀬 煌(みなせ こう)。それがかつての少年であり、大きな背のトラックドライバーの名だ。
「煌さん、おかえりなさい」
煌に手を振るのは、同じ会社に勤める事務員の白川 涼(しらかわ りょう)。艶やかな黒髪に透けるような白い肌、その美貌に誰もが振り返った。
「ただいま!」
煌はトラックの運転で日焼けした腕を挙げて、満面の笑みを浮かべて涼に手を振り返した。
2人の間には18の歳の差があったが、社内では誰もが知る親友同士だった。
「土曜日サウナ行こうぜ~」
汗で濡れた作業着を着替えた煌が、涼に冷たい缶コーヒーを差し出した。
「煌さんとサウナに行くと、僕の体が貧相に見えちゃうからなぁ……」
涼が恥ずかしそうに笑うが、煌はお構いなしだ。
「そんなこと言っちゃって、行きたいくせに」
隣で煌はにやりと笑う。涼のことはなんでもお見通し、と言わんばかりの表情だ。
「まあ……行きたいです、はい」
観念したように頬を掻きながら、涼はうなずいた。
何気ないやり取り、週末の約束。これが二人の日常だった。
「煌さんはサウナ強すぎなんですよ……」
のぼせた様子で水風呂に肩まで浸かった涼は、熱い息を吐き出した。
「まぁな。それにしても涼、お前は水風呂好きすぎだろ?」
煌が笑って声をかけると、涼は真っ赤に火照った顔を冷たい水でバシャバシャと洗った。
「だって、気持ちいいじゃないですか」
長い前髪を掻き上げて、目を細める涼。
二人の体が水中にゆらゆらと揺れて、一つの幻のように溶け合って見えた。
涼が入社して12年。
最初から誰よりも煌に懐いて、「煌さん」と呼んでは仕事だけでなく、サウナの入り方から夜の街の遊び方までなんでも教わってきた。
煌にとっても、涼は特別だった。
年の離れた後輩であり、弟であり、息子のようでもあり、誰よりも心を許せる親友だった。
たとえドライバー仲間でも、涼を悪く言う者だけは許さなかった。
「煌さん、今も彼女さんとかいないんですか?」
夜の居酒屋。ほんのりと頬を赤らめた涼が、グラスを傾けながら訊ねた。
「お前それ、何度でも訊くなぁ」
煌は呆れたように返す。
「……彼氏さんも?」
涼が微笑みを浮かべて続けると、煌は焼酎をぐいっとあおってグラスを空にした。
「いたら土曜の夜にお前と飲んでると思うか?」
涼をジトッと横目で睨む煌。
そんな煌を見て涼は、楽しそうに笑った。
「だって、僕は特別でしょ?」
「こいつ~! その自信はどこから来るんだよ!」
煌は隣に座る涼の肩を抱くと、額を合わせるようにして顔を近づけて笑った。
涼も、仕事中には見せないような無防備な笑顔を見せた。
いつもと変わらない二人だけの夜が、笑い声とともに過ぎていった。